2012年06月号 教育の目的、教員の役割
知的生産にマックやiPadをどう活かすか。日ごろ私が実践しているさまざまな手法や手順を具体的に解説するのがこの連載の目的である。その過程で、「教育」、「表現」、「創造」といったテーマを掘り下げていきたいと考えている。
道具としてのマック
「マックやiPadでどんなことができるのですか?」という質問をよく受ける。できることは無限にあるから唯一の正解などない。そこで私の回答はこうなる。「あなたのやりたいことができますよ。」
その後の展開は面白い。「マックで何ができるかわからないのにやりたいことなど思いつかない」と言う人から、「宇宙に行きたい」と夢を語る人までさまざま。マックで宇宙に行けるかはさておき、この答えにはその人の生き方が見え隠れする。
結論を先に求めるか、自分の希望を先に持つか。その差は大きい。前者はものごとを受動的に学ぶ姿勢、後者は自ら表現する能動的な姿勢が背景にあるといえよう。
マックもiPadも単なる道具だ。それを使って何をするかは、使う人次第である。道具が用途を規定するのではなく、人が用途を開拓するのだ。人類は古来、水、石、木、火と新たな道具を手に入れるたびにその使い方を編み出し、次第に用途を広げていった。それは今日のITだって同じである。
だから、マックやiPadで何ができるのか、という問い自体、ナンセンスなのだ。使い途は自分で見つけるものである。目の前にあるこの薄い物体が何に使えるか、試行錯誤し、自分の目的にあった使い方を見つけようとする気持ちが大切なのだ。
引き出すのが教育
教育とは教えないことである。大学の教壇に立って十数年、その思いは年々強くなる。
人から教わったことなんて翌日にはほとんど忘れてしまう。でも自分で考えて出した結果は忘れにくい。もし忘れてもまた考えればいい。だから教育の目的は、結論や答えを教えることではない。
では教員の役割は何か。興味や関心を喚起することだ。学生たちが生来持っている好奇心の扉をノックし、「面白い」と感じる感性に訴えるのだ。面白さを伝えられなかったら、教員としての私の力不足である。
しかし近年、結論を知りたがる学生が多い。結論のみを知って満足してしまう。大変残念だ。面白いとか面白くないとか以前に、結論を求めることに意識が向いているから、思考のプロセスが頭に入ってこない。考える道筋こそが面白いのに。
私が教えている法律学は、百人いれば答えが百個あるという学問分野である。唯一絶対の解など存在しない。こう説明すると意外に感じる人も多いようだ。
ともすると法律とは、社会の争いごとを投入すると「解決」がコロンと出てくる便利なブラックボックスのようなイメージを持たれるかもしれない。しかし、もしそうであるなら、裁判所などなくても争いごとは即時に解決するはずである。
でも現実には、裁判には長い時間がかかる。ようやく判決が出ても上訴すればまた別の裁判所が新たな審理をする。その結果、ひとつの争いごとに対して、地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所で、おのおの異なる判断が下されるのが常である。
法律の専門家である裁判官が3人、5人、ときには15人で判断して、その結論はまちまち。これこそ、法律問題に対する答えは十人十色、という明らかな証拠といえるだろう。
したがって法律学を教える教員にとって、「答えを教える」ことなど不可能なのだ。唯一の解というものが存在しない学問だからである。仮に答えを提示するとしても、各種の見解を列挙するとともに、私自身の見解を述べるに過ぎない。しかしそれは学生自身の答えではない。
学生たちには、自分で自分なりの解を出してほしい。そこで教員としての私は、いかに法律が面白いか、いかに法的思考が楽しいかを伝えることに最大の力を傾注するのである。
問題の所在を明らかにし、そこを始点として思考のステップを丁寧に進めていく。思考の手順を示しながら、学生たちが自分の解を考えだしたくなるように興味を引き出していくのである。私にとってはその過程もまた楽しい。
教育とはeducationであり、その語源「educe」は「引き出す」という意味である。学生たちが持っているチカラ、潜在的なポテンシャルを引き出すのが教育の本旨なのだ。情報を「教える」ことはeducationではない。
手法を身につける
このように考えてくると、教員のもうひとつの重要な役割が浮かび上がってくる。それは、方法論を伝授することである。
学生たちが自分で自分の結論を出せるようになるために、思考の手順や手法を教える。彼らがその手法を会得し、縦横に使いこなせるよう手ほどきするのが教員の大切な仕事だ。
そのためには、その手法を学生たちが実際に繰り返し実践する時間を多くとることが必要だ。技術は反復によってのみ身に付くからである。
例えば、自転車に乗れない人が乗れるようになるプロセスを考えてみる。自転車の乗り方マニュアルやテキストをどんなに熟読しても、一向に乗れるようにはならない。乗れるようになる唯一の方法は、何度も自転車に乗ってみて、転んで、また乗って……、という実践を繰り返すことである。
ひとたび乗れるようになったら、その自転車に乗ってどこに行くかは自由。人に教わることではない。自分の好きなところに旅立てばいい。
従って、方法論こそは「教える」べきなのだ。そして「学ぶ」価値があるのは手法なのだ。ひとつでも多くの手法が身に付いていれば、そのどれかが将来きっと役に立つ。
興味を喚起する。手法を身につける手伝いをする。そしてうまくいったらほめる。この3つが、教員の役割だと考えている。
この連載は、そんな私の教育観に基づいて書いていく。マックやiPadを使って、何をするか、ではなく、どうするかを記すのだ。私がどうやってマックを知的生産の道具として役立てているのか、を明らかにしたいのである。その一端がどなたかの参考になったらうれしい。
かの梅棹忠夫氏の名著『知的生産の技術』は冒頭、「学校はおしえすぎる」、「やりかたはおしえない」という2つの節で始まる。「知識はおしえるけれど、知識の獲得のしかたは、あまりおしえてくれないのである」と述べ、その問題意識を出発点として、知的生産の技術を論じるのだ。
奇しくも私はこの本が出版された年に生まれた。そして大学に入学した年から24年間、マックを使い続けている。とはいえ、無限の可能性を持つマックの極私的な使い方を披瀝できるにすぎない。しかしそれを知りたいと望んでくださる方もいらっしゃると信じて、知的生産のマック術を展開していきたいと思う。
ご意見やとりあげてほしいトピックなどがあれば、twitterやFacebookを通じてお寄せいただければありがたい。